last update 2004. 10.5


浮浪雲 live at 国立市民祭
(左から恒松正敏/マーボー/リュージ/アソヤン/三浦敏之)


talking about rock and roll vol.02
浮浪雲 - haguregumo



*1977〜78年頃の一時期(約半年)あの「はぐれ雲(浮浪雲)」にギタリストとして在籍していた三浦敏之さんにお話をうかがいました。三浦さんはエリック・クラプトンをはじめとするROCK/BLUESギターに魅了されたギター青年で、はぐれ雲に加入した時、イケベ楽器の店員だった…。

◆「はぐれ雲」って漢字表記で「浮浪雲」だったんですね。
はぐれ雲の結成は何年で、経緯などはご存じでしょうか。(途中のメンバーの変遷なども含めて)三浦さんの加入時期は正確に覚えていらっしゃいますか?
結成時の詳しい事はわかりませんが、プリズムの和田アキラさんがかつて在籍していたと聴いた事があります。私が加入したのは、1977〜78年頃位しか分りません。加入期間は6ヶ月ほどです。

◆三浦さんがはぐれ雲に加入したいきさつは三浦さんのHP【NEWPOINT】に書かれていますが、なぜはぐれ雲に入ってやろう!と思ったのでしょうか。音楽性が近いとか、メンバーの誰かをよく知っていたとか。当初、恒松さんとは面識があったのでしょうか?
当時のイケベ楽器(現在の池袋店)は、地下1階、地上3階建てのビルの中に有り、1階店鋪と地下レンタルスタジオで構成されていました。2、3階は麻雀店でした。地下スタジオの防音設備が無かったので、1階で電話を受けると会話に支障をきたすほど音が漏れていました。つまり、バンドの演奏が全て聴ける状態なので、上手い下手はすぐに判断できました。イケベ楽器の客層は高校生、大学生が多くて学校の帰りにちょっと寄って帰宅するパターンでしたから、自然に顔馴染みの連中ができていきました。学校には行かず、開店から閉店までイケベで遊んでいる大学生の男(A君)がいました。彼は誰とでもすぐに友達になってしまう才能を持っていて、まるで店員のような顔をして店にずっといるんです。その彼の友達が「浮浪雲」のギターをやっている事をしりました。時々、浮浪雲がイケベで練習をする時は、スタジオから聴こえて来るブルースを聴いて、「おーカッコイイブルースだなー!」「おれならここはこんな感じに弾くなー」とか思いながら聴き耳を立てていました。A君はブルースが好きでベースを弾くので、店の閉店後仲間を集めて一緒にセッションをよくやりました。そしてそのA君が情報をくれたのです。「こんど、浮浪雲のギターのB君が辞めるから三浦さんやらない?」と。私はあの浮浪雲のギター・・!!と聴いて、即やるやると答えました。B君ともセッション仲間で顔見知りだったので、浮浪雲の曲に関する情報を聴いたりしていました。
当時スタジオ料金を割り勘で払う時に、浮浪雲のメンバー全員の顔を知っていましたが、恒松さんとは、話をしたことは有りませんでした。ギターのB君を知っていただけです。そして浮浪雲のオーディションを受けることになります…。


◆オーディションということは何人か候補がいた、ということでしょう。その時(セッションをしたのでしょうか?)の印象、覚えていること何でも結構ですので教えていただけますか。
A君から情報をもらった時に「何人か候補がいるみたいけど、まだ決まってないみたいだから、一度セッションしてみてくれないかな?」くらいの感じの話でした。そして、イケベ楽器のスタジオで閉店後にセッションが行なわれました。ギターの恒松さん & ベースのアソヤン & ドラムのマー坊と私の四人でブルースをを数曲やりました。私はチョーキングを多用して一音入魂のフレーズを弾きまくりました。セッション終了後、恒松さんからカセットテープを二本渡されました。そしてこう言いました。「次の練習までに、これ全曲コピーしておいてくれる?」これが合格の意味だと思いました。その後バンドに専念すると決めて、2年半勤めたイケベ楽器を辞めました。

◆はぐれ雲の当時のメンバーをご紹介いただけますか。
・ギター:(恒松正敏・マッちゃん)
・ドラム:(マーボー)
・ベース:(アソヤン)
・ボーカル/ハープ:(リュージ)
・ギター:(三浦正敏)


◆活動場所、参加イベントなどは?
曼荼羅、チキンシャック(福生)、法政大学学園祭(野外ライブ)、国立市民祭(野外ライブ)※写真、創形美術学院学園祭...など。

◆はぐれ雲は全曲オリジナルのブルースバンドだったとのことですが、当時、そのようなバンドは他にいましたか?歌詞は日本語?英語?両方 でしょうか?
ブルースバンドで似ていたのは、村八分、ファニーカンパニー、くらいしかしりませんが、この2バンドが当時活動していたかは定かではありません。歌詞は全曲日本語でしたが、1曲だけキンクスの『ユー・リアリー・ガット・ミー』を恒松さんがノリノリで歌ってましたよ。

◆はぐれ雲の音源をまだ聴いていないのにこんな質問をするのも変ですが、当時一番ウケがよかった(人気があった)曲、バンド側が一番気に入ってたのはどんな曲でしょうか?
*当時の演奏曲目は、、、
『あんた』
『わけ知り顔で』
『悪魔がおまえと』
『水たまり』
『ろらりくらり』
『もうたくさん』
『街のながし』
『雨の日曜日』
『つかれたら休もう』
『のら犬』
『いつ頃のことだろう』
『なにもかも狂っちまった』
*一番人気が有ったのは『なにもかも狂っちまった』のロックンロールです。
*私が気に入っていたのは『もうたくさん』。メインでアドリブを弾かせてもらった。今聴いてもカッコイイ、ロックンロールナンバーです。


◆恒松さんは当時、東京芸大の学生だったでしょうか、いろんな記事や写真から「トンガっていて、怖そう」というイメージを勝手に持っていますが(笑)、実際はどうでしたか?
バンドに加入した当時、恒松さんからレコードを大量に借りていたのですが、それを返しに、確か武蔵境か武蔵小金井に住んでいた恒松さん宅に届けたことがありました。昼頃だったから彼女?が湯豆腐を作ってまして、一緒に御馳走になったことを覚えています。優しい所もあるけど、厳しいところも有りましたよ。当時のメンバーは、皆私より年上でしたから、よく冷やかされましたね。国立の創形美術学院で初ステージをやったときに、曲のラストのコードを私が間違えて、恒松さんに怒られた覚えがあります。でも普段はみんな感じが良くて、面白くて、居心地がよかったです。

◆当時のはぐれ雲のライブ記録(日付と会場)が残っていたら教えていただけますか。
当時の録音テープが(私がSONYのデンスケで録音しました)1本だけあります。上記の曲が全て入っています。国立の創形美術学院で行なった私の初ステージの録音です。ただ、実家にあるので詳しい日時はわかりません。テープには書いてあります。
このテープの中に入っているのですが、演奏中に恒松さんのギターの弦(たぶん2弦)が切れて、演奏中に交換を始めたのですが、なんとチューニングも演奏中にはじめたので、「キュイーン」「キュイーン」「キュイーン」と入ってます。結局、チューニングが完了しない内に曲が終ってしまいました(笑)。


◆恒松さんのはぐれ雲脱退はどのような状況下だったのでしょうか。
私は、恒松さんが浮浪雲を辞める前に、脱退しているのでよく分りませんが、その後も情報誌のライブ情報にはぐれ雲の名前が載っていたので、まだみんな頑張っているんだなーと思っていました。

◆はぐれ雲にレコードリリースの話、レコーディングをした、とか、そういう話はありましたか?
当時、マネージャーがいました。彼が録音テープを持って、色々なレコード会社に売り込みに行ったのですが、相手にされなかったみたいですね。

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◆さて、三浦さんははぐれ雲加入時、イケベ楽器の店員をされていたとのことですが、はぐれ雲以前の音楽・バンド歴、影響を受けた/好きなミュージシャンなど教えていただけますか。
私は1954年生まれで、小学生5、6年の頃はビートルズやベンチャーズが流行ってました。クラスの女の子がレコードを聴かせてくれると言うので、5人くらいで行き、ベンチャーズを聴きながらみんなでゴーゴーを躍りました。当時はモンキーダンスともいいましたね。ノーキー・エドワーズの弾くリバーブの効いたモズライトギターの音に魅せられギターが欲しくなり、ベニヤであの形を作り、弦は凧糸を張り、ストラップの変わりにヒモを付け、演奏しているカッコだけで陶酔してましたよ(笑)。
中学1年になって、ガットギターを買い、ナイロン弦をスチール弦に変えて、当時流行っていた、グループサウンズ(スパイダーズ、タイガース、モップス等)を自己流で演奏してました。高校受験で深夜放送を良く聴きましたが、EPでストーンズやビートルズのヒット曲を買いました。ちなみに始めて買ったEPはストーンズの『JUMPING JACK FLASH』です。一番頻繁に聴いた印象があるのはビートルズの『WHILE MY GUITAR GENTLY WEEPS』です。
最も強烈な印象を受けたのは、高校生のときにテレビで見たキャロルですね。フジテレビのリブヤングに初登場。あの演奏を見て聴いた時は、全身に電気が走りました。まず、内海利勝のギターテクニックにしびれました。英語みたいな日本語で歌うベースの矢沢永吉。英語の発音ばっちりのサイドギターのジョニー大倉。リーゼントに皮ジャンでみんなカッコよかった!キャロルの「ファンキーモンキーベイビー」の間奏を真剣に耳コピして、弾けるようになったときはすごくうれしかった覚えがあります。
高校卒業後、専門学校に入ったのですが、そこのロック同好会に入ったことで道を外しましたよ(苦笑)。勉強よりも音楽がやりたくなり、音楽学校へ行く必要性を痛感し入学金を稼ぐために中退して働きました。ある程度お金が貯まった頃『ミュージックライフ』誌に社員募集の広告を発見しました。楽器メーカーのフェルナンデスでした。そしてなぜか即応募して、採用になりました。フェルナンデスは社員全員が音楽好きで、楽器を弾く人ばかりなので仕事を離れると毎日楽しかったですね。クラプトンのブルースを完コピで弾く後輩がいてギターが上手い!後輩を師匠と崇めてブルースの基礎を学ばせてもらいました。一音入魂のフレーズ、呼吸を意識してフレーズを弾く、チョ−キングやビブラートの重要性等を教えてくれました。ここからブルースギターにハマって今でも抜けられません。

◆バンド歴は?
バンド歴といえるのかな?
・専門学校のロック同好会のセッションバンド
・フェルナンデスの社内で作ったセッションバンド
・夏祭りのど自慢大会があり、イケベ楽器によく来ていた高校生バンドに頼まれて、盆踊りのやぐらの上で、高校生と演歌やピンクレディー等の流行歌のバックをやりました。
・キャバレーロンドンの専属バンドに、一曲だけ弾く為に呼ばれ、ゴーゴータイムでクロスロードをやってしまった。
正式なバンドとして演奏したのは、はぐれ雲だけです。


◆フェイバリット・ミュージシャンは?
・影響を受けたミュージシャン:山口冨士夫(村八分)、エリック・クラプトン、キース・リチャーズ、デュアン・オールマン、ミック・テーラー、サンタナ、内海利勝
・好きなミュージシャン:エリック・クラプトン、デュアン・オールマン、ジョニ−・ウインター、ジョージ・ハリソン、サンタナ


◆フェルナンデスに入社後、何か面白いエピソードなどあれば教えていただけますか。
雑誌の募集でフェルナンデスに入社してしまった小生はまだ19歳、私が入社した当時は、フェルナンデスがエレキギターを作りはじめて間もない頃でしたから、売り込みに有名なミュージシャンを訪ね、使ってもらう交渉をしていました。キャロルの矢沢永吉さんに矢沢ベース(琵琶のような形)を提供する為に、マイクの位置や弦をかえて何本も作って渡していました。クリエイションの竹田和夫さん、柳ジョージさんにも使ってもらうために好みの詳細を聴いて製作していました。フェルナンデスの書体が、フェンダーに似ているとして、山野楽器からクレームがついて、書体を変更することになりました。ウサギをイメージして、バー二ーブランドの登録を済ませたところ、スペルを間違えて「BUNY」ではなく「BURNY」としたため、せっかくデザイナーを頼んで作ったウサギのキャラクターは全く意味がなくなり、営業車5台に描かれたうさぎさんは泣いてました。フェルナンデスのFの文字も、上の線をウサギの耳を横にした感じでデザインしたのですが、これも消滅してしまいました。ウサギはBURNYと思い込んだ担当者の悲劇でした。笑い話のようなほんとの話です。
商品管理で1年間修行して商品を覚え、強制的に自動車教習所へ通わされ免許収得、2年目から営業となり、ワンボックスカーにギターを積んで担当エリアの楽器店回りをすることになりました。大宮駅の直ぐ近くにある「やすな」というレコード楽器店は結構な御得意樣でしたが、山野楽器の営業も回っていてモーリスギターを卸していました。ブランドが強いと勝ち目は有りませんね。私はギター以外の商品を卸して売り上げを保つ弱い立場になりました。その山野楽器の営業マンが、後にイケベ楽器店を設立した池部さんです。時々大宮「やすな」で池部さんにばったり会うと、最新価格の載っているフェンダーのカタログを貰ったり、業界の情報を聞かせてもらったりしてました。優しい方なので有り難かったです。私の最初の担当地域は千葉、埼玉、八王子方面でしたが、徐々に売り上げを保てるようになると、新宿、渋谷、池袋、銀座方面の担当に変わる事になりました。池袋に大量販売の楽器屋ができたらしいと社内の噂を耳にしたので、期待をしながらその店に挨拶に行くと「あれ!池部さんじゃないですか!」「あっ!三浦君か!」こんな感じで話はとんとん、私は売り上げ新記録を樹立しました。その後、楽器店回りよりもお客さんに直接売る方が楽しい事を知って、フェルナンデスを辞めて池部楽器に入社しました。
池部さんは高知県出身、ジャズが趣味でテナーサックスを演奏するんですよ。閉店後よく店で吹いてました。

◆楽器店にいるといろんな情報が入ってきたとのことですが、70年代中頃〜後半くらいの当時、評判が高かった/勢いがあったミュージシャン、バンドで三浦さんが特に覚えているものがあればいくつかあげていただけますか。
・プリズム(和田アキラの早弾きギターテクニックには皆が驚いてました)
・クリエイション(竹田和夫のフレーズは印象に残ると評判)
・カルメンマキとオズ:高校生コピーバンドの定番的存在
・高中正義:一部のギターマニアに崇拝されていました
・竹中尚人=Char:歌えてしかもギターがめちゃくちゃ上手い、店に来る高校生の憧れでした


◆最近の三浦さんの音楽活動について教えてください。
「現在、練馬に有るライブハウス「東京クラブ」のオーナーが募集して集まった方々と、オールデイズをやるバンドを結成して、毎週練習しています。オーナーが元プロギタリスト(永井さん)で、いろいろ勉強させてもらっています。私は、もうすぐ50歳ですが、好きなブルースばかりにこだわっていると、回りに誰もいなくなってしまうことに気が付き、ジャンルを越えた仲間探しをして、ようやく今のバンドに出会いました。オーナーの人柄と音楽的才能がすばらしいので、当分の間、ココで活動して行きたいと思っています。カントリー系の曲をやる事になるとブルース畑で育ったギタリストはお手上げですね良い刺激を受けて、カントリー系にも挑戦しています。

★三浦さん、ありがとうございました。
三浦さんのBLUESに対する愛情がひしひしと伝わってくるHP【NEWPOINT】もぜひ一度ご覧下さい。
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