last update 2002. 2.24

pre-friction "○△□"
(1970-74)


ЯECKとCHIKO-HIGEが出会った70年代初めに行われたスタジオ・セッションに同席したやまかさんから貴重なコメントをいただいたのでここで紹介したい。これはЯECK&CHIKO-HIGEが在籍したマルチ・アート集団「○△□」のレコーディング・セッションである(1999年11月30日更新)

スタジオ・セッション参加メンバー
(やまかさんの記憶によるもの)
 「・・・ もう記憶がボロボロなんではっきり言えないですが、新宿の御苑スタジオでЯECKCHIKO-HIGE、そして村八分カント青木真一さんがセッションしました。
 ЯECKのギターは青いストラト・キャスター、青木さんはピックアップを付けたギブソンの生ギター(ケースなし)でした。
 この夜のことは『ニュー・ミュージック・マガジン』にカント関連のニュースとして載ってました。時期は73年以前だったと思います。確か、村八分のレコード(『村八分ライブ』)が出る前だったと思うんですが。
 後に単行本で、ドアーズやら村八分やらを取り上げていたある先進的な雑誌の新人バンド紹介に3/3が載っていました。不思議なのはセッションを見た当時、僕はЯECKヒゲを“3/3のメンバーの2人”と認識していなかったのに、彼らと3/3をどうやって結びつけたのか?今思うと、その雑誌にメンバー名が載ってたからでしょう。確かЯECKヒゲの2人の名前しかありませんでした。代表曲は『きせつふうのうた』。季節風なのか季節ふうなのか謎でした。・・・」
 カント:ギター、リコーダー、笛、ドラム
 青木真一:ギター(Gibsonハミングバード)
 ЯECK:ギター(青のストラトキャスター)
 CHIKO-HIGE:ドラムス

 ЯECKの彼女
 カントの彼女(スキンヘッドのお姉さん)
 アキラ:カント宅に居候していたフーテン
 やまかさん

※ベースはいなかった。
場所は新宿の御苑スタジオ風月堂で待ち合わせ。この日と前後して、たぶん何度かセッションしているはず。

 『ロック大系1957-1979(上)』(白夜書房)の記事をもとに少し説明を加えると・・・
  カントは1971年末に高円寺のロック喫茶「ムーヴィン」で村八分と知りあい、初心者ながら前任の上原裕(ユカリ)に代わりドラマーとして村八分に加入した。大男の芸術家で、加入の翌年72年のある日、突然バンドを脱退してしまう。その後、ヨガの先生になった。

青木真一山口冨士夫のすすめで村八分の初代ベーシストとなる(70年春頃)。それ以前は音楽活動の経験もなく全くの初心者だった。72年初めに村八分を脱退し、後にSPEEDにギタリストとして参加する。SPEED時代の青木の映像は、宝島VOSヴィデオ『ロッカーズ』で見ることができる。ちなみにこのフィルム中のインタビューで青木が非難しているドラマーは、村八分の後シュガー・ベイブやエキゾチックスなどに参加した上原裕と思われる。

・73年5月5日・京都大学西部講堂でのステージを記録した『村八分ライブ』のリリースは73年8月25日
"新宿・風月堂にて"
左から青木真一カント山口冨士夫チャーボー浅田哲
撮影:井手情児『ニュー・ミュージック・マガジン』1972年1月号

  やまかさんが指摘しているこの(御苑でのセッションの)夜のことを書いた『ニュー・ミュージック・マガジン』とは、左図1973年6月号「RANDOM NOTES」というコーナーだ(1999.12.4更新)

 <記事中の文章>

 ■以前村八分にいたカント

 レコードを3枚だけ作ったらしい。

 内容は雅楽のような音楽だというが、

 詳細は不明。

 雑誌の6月号が発売になるのは5月だから、御苑スタジオでのセッションは1972年末〜73年春ころに行われた可能性が高い。記事の内容は一見、セッションとは無関係のように見えるがやまかさんによると、まさにこの記事がセッションのことを指しているとのこと。「レコードを3枚」というのは、3タイトルではなく3枚プレスした、という意味だろうか?それにしても、このメンバーで雅楽のようなサウンドを出したというのは想像し難い。音源は残っているはずなので、是非聴いてみたいところだ。

2002年2月更新;
2001年6月、人づてにこのサイトを知ったカント氏から私宛にメールが届いた。上記レコーディング・セッションは当時カント氏が主宰していたマルチ・アート集団「○△□」(まるさんかくしかく)であることがわかった。その後電話でお話をうかがったところ、ここで当時の証言をしている方にコンタクトをとりたい、とのことだった。後にキャプテン・トリップ・レコーズからCD化される上記レコードのライナー・ノートをまとめるにあたり、かなり曖昧なご自身の記憶だけでは資料不足でぜひやまかさんの協力を仰ぎたいと。数カ月後、やまかさんとカント氏、上記セッションに参加していたЯECK、それからスタッフの方によるミーティングが実現した。以下、やまかさんからいただいた情報をもとに、前述のやまかさんの証言部分に情報を追加したい;
「もう30年前のことですから私も含めみんなの記憶は曖昧ですよ。とりあえず青木真一さんが参加したかしなかったかで、私と他の人たちの意見が別れました。確かいたと思うんですけど、こればっかりは記憶に絶対の自信があるわけではないので何とも言えません。それとЯECKが「当時青いギターなんて持ってなかった」と言うんですけど、自分のギターじゃなくて誰か他人のギターだった可能性は大です。当時の状況からすると。あとニュー・ミュージック・マガジンの記事では言及されていませんでしたが、あのレコーディングはカント氏のソロというわけではなく、70年ころから活動していたマルチ・アート集団「○△□(まるさんかくしかく)」の名義だったんですね。そういえば「3/3」のバンド名の由来は、○△□が出していたミニコミ誌『4/4』だそうで。あと私が『きせつふうのうた』と記憶していた3/3の曲のタイトルは『きせつのうた』だったみたいです。
 しかし今から考えると当時は変な時代でしたね。誰とはなしに誰かの家(部屋)に出入りして、そこにいる連中同士は必ずしも知り合いってわけじゃないんですよ。私も高円寺のカント氏宅に何度か出入りしてた1人なんですけど、顔は知ってる程度で直接話したこともなかったし、実は直接話すのは今回が初めてだったんですよ。今思い出して「もったいないな〜」と思うのは、当時カント氏の部屋に「村八分」って書いたオープンリール・テープが無造作に置いてあるのを見たんですよ。多分アレはカント氏が在籍していた村八分の録音じゃないかと思うんですよ。だとすれば、かなりレアなカント氏在籍時の村八分を聴くチャンスがあったのに!どうせそのテープも捨てちゃったんでしょうけどね(笑)」

以上を整理します;
・70年代初頭にCHIKO-HIGEとЯECKが出会い3/3(の原型)が誕生する。
・2人は3/3をやりながら、カント氏主宰のマルチ・アート集団「○△□」にも参加していた(73年ころ)。
・○△□以前に、カント氏とЯECKは御茶ノ水デザイン学院で知り合っていた(『DOLL』2002.1号より抜粋)
・当時レコードとしてプレスし、キャプテン・トリップ・レコーズより2001年12月にCD化された○△□のレコーディングが、上記やまかさんが見た御苑スタジオのものと同一でないかもしれない。青木氏参加の部分、それからレコーディングには他にとーちゃん(三浦孝司)、比田義敬、ジュノが参加しており、やまかさんの証言と人数に開きがあることなどから。


『○△□』(3枚組/LP(1枚)/ソロ・シングル)
○△□のЯECK

  『ニュー・ミュージック・マガジン』1973年6月号に「〜雅楽のような音楽〜」とだけ評されていた○△□の幻のレコーディング記録が、2001年12月24日にキャプテン・トリップ・レコーズからCD化された。当時新宿御苑スタジオで録音され、アセテート盤でそれぞれ数枚ずつプレスされたと思われる3枚組レコードをCDでも3枚組にして忠実に再現している(CTCD-362〜364)。音は異国情緒のある純和風といった感じで巷で言うサイケデリックとも少し異なる感がある。ダラ〜っとしたものが続いているのかと当初想像していたが、意外とリズムをキープしたドラム・ビートが続く部分もある。この部分に絞って言えば偶然にも同時代のジャーマン・プログレと共通しているかもしれない。いずれにしても記録として価値のある音源である。
『○△□』(CTCD-362〜364)

  3枚組CD『3/3』のブックレット型ジャケットの指定箇所を切り抜き600円と一緒にキャプテン・トリップに送ると、当時3枚のLP以外にも制作した1枚モノのLP(CTCD-365)とカント氏のソロ・シングル(CTCD-366)を入手できる。左図の通り365は12cm CD(アルバム・サイズ)、366の方は8cm CDとなっている。シングルはとーちゃんの部屋で録音された可能性が高い。またカント氏ソロの方は、レコードの両面ともに溝が1本しかなく音が入っていないもので、レコード貼りが拾う溝のノイズがループするだけというコンセプチュアル・アートになっている(『DOLL』2002.1号より抜粋)。CDは2トラックに分け、溝のノイズ・ループが録音されている。

○△□メンバー
・カント(渡辺作郎)
・とーちゃん(三浦孝司)
・渡辺悦子
・ЯECK
・CHIKO-HIGE
・ジュノ
・比田義敬

CAPTAIN TRIP RECORDSホームページ
LP(CTCD-365)

ソロ・シングル(CTCD-366)

*○△□は1974年頃で消滅。現在、渡辺作郎・悦子夫妻を中心にミニコミ誌『TOTOTO』を不定期で刊行。現在はwebサイトで展開中。2002年3月にはTOTOTO 穴カフェ展"を高円寺で開催した。



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