last update 2002. 11. 9

pre-friction "3/3"
(1973-77.3)

前々ページで記載の通り、3/3はЯECK+CHIKO-HIGEのセッション・ユニットとして誕生し、その後1973年にベースのスギタが加入することでよりバンドとしての形が固まってきた。スギタ脱退後、スギタの弟と同級生でレックらと交流があったヒゴ・ヒロシがベーシストとして加入。バンド名の通りトリオ編成で活動を続けたが、76年頃にギターの安藤篤彦が加入し77年の活動休止まで4人編成だった。べースのヒゴ・ヒロシとギターの安藤篤彦は後にMIRRORSを結成することになる。

 メンバー:
 ・ЯECK(ギター、ヴォーカル)
 ・CHIKO-HIGE(ドラムス)
 ・スギタ → ヒゴ・ヒロシ(ベース)
 ・安藤篤彦(ギター)
 ※上記以外に多少メンバーの変動があった


●デモ・テープを配り歩く:
 当時バンドが置かれていた状況をЯECKは振り返る・・・
「ステージをやっても客が少ないし、何も変わらなかった。どうすればその状態が打開できるのかわからなかった。ライブ・ハウスに出たいと思って、テープを持っていって、聞いてもらうわけ。すると、まだまだだねとか、もう少し勉強してから来なさいとか言われる。その繰り返しに疲れてきた。」
(『ニュ−ミュージック・マガジン』1979年10月号)

 当時、高円寺で古着店を営んでいたA氏が3/3のマネージャーのような仕事をしていたようだが、A氏によるとロフトなどにも配ったが全然だめだったという(現在この古着店の高円寺店はなくなり、渋谷店のみ残る。某氏はそのオーナー)。
  (※2002年2月更新:A氏は近年他界されました。)
 ЯECKも「76〜77年頃に新宿LOFTにテープを持って行って聴いてもらって、ダメと言われて出してもらえなかった」と発言している。


●自主制作アルバム(全7曲): → 歌詞と曲解説
 1975年の時点で自主制作アルバムを出した。プレス数はわずか10枚。この10枚についてはいろんな伝説がある。いくつかの証言、噂をまとめてみた。

 ・ある人はゴミ捨て場でたまたま見つけた(笑)。

 ・レコード店「ディスクユニオン」に2枚出たことがある。
  そのうち1枚はS-KENが売ったもの。普通、買い取りしたものは支店レベルで査定して店頭に並ぶが、
  このケースでは本物であるかどうか査定するために本社扱いになったという。
  ちなみに売り値は30万円だったとか。

 ・売ってもいいが今は売りたくない、と言っている人がいる。

 ・1枚は1975年に『ニュー・ミュージック・マガジン』誌(現『ミュージック・マガジン』)
  の編集部に送られている。

 ・CHIKO-HIGE氏の兄が1枚所有しているらしい。


 噂も含めてこれ以外にも諸説あるようだが、とりあえず都内に5枚は存在するようだ。ただ疑問に思うのはなぜ「10枚」だけプレスしたのか?という点。もちろん一般販売用ではなくプロモーション用だったから、という理由も考えられるがそれならカセット・テープで十分だ。ここからはあくまで想像だが、ライブ・ハウス出演のために各店をまわり冷たい反応にあう中で、「レコードくらい出してないと今の時代、出演できないよ」など言われたから無理して10枚だけでも塩化ビニールに音源を焼き付けたのではないだろうか。当時のロック・シーンは、サディスティック・ミカ・バンドキャロルといった“オーバー・グラウンド”のアーティストが主流で、ライブ・ハウスも軒並みメジャー系アーティストが幅を利かせていた部分があるから、アンダー・グラウンドのミュージシャンは演奏の場を探すのに一苦労したようだ。

2002.11.9更新)『ロック画報』08のインタビューでヒゴ氏は、このアルバムのプレス枚数について「30枚から50枚の間じゃないかな」とコメントしている。どっちがホント?とりあえずインタビューの一部を抜粋;
- 75年に自主制作されたレコードは、ライヴと平行していろんな所で録っていたのですか?
ヒゴ)「あれは、オレが入ってわりとすぐに作った。レックなんかは、あの時期にひとつ形にしておきたかったんだろうけど。福生の米軍ハウスで録ったり、東京芸大のライヴ・テイクも入れた。」
- 制作枚数は何枚ぐらいだったんですか?
ヒゴ)「30枚から50枚の間じゃないかな。」
- ジャケットは手作りだったそうですが…?
ヒゴ)「あれはレックが作ったんだけど、真っ白い紙のジャケットに銀色のスプレーを吹き付けて、切り張りでピンクの円とチューブでつながっている宇宙飛行士の絵を貼った。で、裏ジャケに曲名とかをマジックで手書きしたの(笑)。」
『ロック画報』08/2002年)


●『ニュー・ミュージック・マガジン』1975年4月号の記事:
 貴重な10枚のうち1枚がニュー・ミュージック・マガジン編集部に送られた。デモ・テープをいろんなメディアに送る感覚だろう。でもなぜテープではなくレコードを送ったのか不思議である。
 テープを受け取った編集部は恐らく、連日のようにそういった類の素材が送られてくるだろうから、1本1本じっくりと吟味できないことは容易に察することができる。そんな状況の中で3/3がわずかではあるが取り上げられたことは、特筆に値するだろう。
 紹介されたのは75年4月号157ページ「今月の国内制作盤」の最後の数行。話題の中心はサン・ハウス(鮎川誠が在籍した博多のロックン・ロール・バンド)が自主制作で出したシングル『地獄へドライブ/キングスネーク・ブルース』だった。3/3の記事は全体の1割にも満たない。

   <記事中の文章>

 最近編集部に送られてきた3/3というグループのLPも

 自主制作盤だろう。録音状態が悪く、音がこもっているが、

 ジミ・ヘンドリックス的なハードでラフで飛んでるギターと

 ボーカルが印象的だ。3/3のレコードの問合せ先は、・・・

 (文章=北中正和氏)

 余談だが4年半後の1979年10月号のFRICITION特集で北中氏は、ЯECKに「LPを作ってNMM(ニュー・ミュージック・マガジン)に送ったら、小さい記事が出た。あれを書いたのはあなたでしょう」と指摘された時、全く記憶になかったと記している。


●3/3のライブ:
 3/3のライブを見たという方にお会いしたことがないので、こちらも記事や現存するライブテープなどから推測することにする。
 まず記録に残っている3/3の最初期のライブは『ニュー・ミュージック・マガジン』1974年2月号「RANDOM NOTES」に記載されている1973年の12月13日(木)青山タワーホールでのライブということになる。

 <記事中の文章>
■12月13日に青山タワーホールで、3/3というグループがコンサートを開いた。この日のステージに登場したのメンバーは、
・レック(ギター)
・スギタ(ベース、元スーパー・ヒューマン・クルー)
・ヒゲ(ドラム)
の3人。会場で16ミリ・カメラを回していた人がいたので、この日のコンサートの模様がフィルムになるのかもしれない。
 編成はシンプルだが、いわゆるギンギラギンではないハードなサウンドを出していた。

 また他のライブ評は
「…ロックン・ロールの持つ熱気と、冷ややかな絶望を、見事に体現していた…」
(別冊宝島『ROCK FILE』Vol.2/1988年)
と記録している。
『ニュー・ミュージック・マガジン』
1974年2月号「RANDOM NOTES」より
※この日のライブ(↑)の映像をお持ちの方は是非、ご一報ください(ペコリ)。

2002.11.9更新)この日のライブは後にベースで3/3に加入するヒゴ・ヒロシ氏も録音マンとして見に行っていた。
「・・・3/3は、次に杉田くんの兄貴のステューがベースを弾いて青山タワーホールでやった。で、偶然小さなオープンリールのテレコを持ってて、彼らが録音してほしいっていうのと、オレも録音するのが好きだったので録りに言った。後日レックたちがテープを聴きたいっていうんで、遊びに行ったのが最初の出会いだった。その後ステューが辞めることになって、たまたまベースを弾いていたから、弾いてみないかって話で加入した。」『ロック画報』08/2002年)



次にЯECK自身が新宿LOFTに初登場した経緯を説明している;

「・・・“リゾート”というBAND(このバンドは2、3回LIVEを演ってなくなってしまいましたが、山口冨士夫chanとルイズ・ルイス加部くん2人がギターでプラスBASSとDRUMというBANDで)を仕掛けた人間が知り合いだったので、この“リゾート”が新宿LOFTに出演する時に一緒に出させてもらったのがLOFT初出場だったと思います。
 こん時は、自分のBANDは“3/3”という名前で、オリジナル曲の他にこの時のステージではBEATLESの「バースデイ」なんかを演って失敗したのを覚えてますね。・・・」
(『ROCK IS LOFT〜HISTORY OF LOFT』発行:LOFT BOOKS)


ЯECKは初登場の年月日に触れていないが、『ROCK IS LOFT』の過去のライブ・スケジュールによると、リゾートが出演したのは76年12月11日(土)および77年1月28日(金)の2回であるからこのいずれかであろう。
 
リゾートについて山口冨士夫のコメント(CLICK!)
リゾートの結成は1976年8月
新宿ロフト 1976年12月のライブ・スケジュール

 また現存するライブ・テープから当時の3/3のライブを伺い知ることができる;

 ・75年6月23日 浦和市民会館  1. JOHNNY
2. いつも
3. きかいのうた
4. まどあけて
5. タイトル不明?

 ・76年5月10日 法政大学  1. JOHNNY
2. IKIGIRE(の原曲)
3. タイトル不明?
4. VICIOUS(LOU REED)
5. きかいのうた

 ・76年9月15日 田島ケ原  1. ALL DAY AND ALL OF THE NIGHT(THE KINKS)
2. VICIOUS(LOU REED)
3. きかいのうた
4. FEMME FATAL(THE VELVET UNDERGROUND)
5. JOHNNY
6. PISTOL

 ・77年2月25日 渋谷屋根裏  1. CRAZY DREAM
2. IKIGIRE(の原曲)
3. KAGAYAKI
4. VICIOUS(LOU REED)
5. I CAN TELL

 ・日時/場所不明  1. きかいのうた
2. VICIOUS(LOU REED)



これらのライブで、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド『FEMME FATALE』ルー・リード『VICIOUS』を演奏している。そして初期FRICTIONの代表曲となる『PISTOL』『CRAZY DREAM』も。

 それから前出の北中氏がリゾートについてと、うる覚えながら3/3のステージを振り返っている;
「・・・3年ほど前(※=76年頃)渋谷のエピキュラスでロックのコンサートが開かれた。彼ら(=3/3)の他にジョン山崎のスクール・バンド、リゾート(山口冨士夫と加部正義のグループ)などが出た。ちょうどニューヨークやロンドンのパンク・ロックのニュースが、イギリスの音楽新聞に載りはじめた頃のことである。出演者の顔ぶれから見て、面白そうに思って出かけて行ったのだが、閑散とした印象しか残っていない。
 3/3はそこでヴェルヴェット・アンダーグラウンドの曲などを演奏していたという。・・・」

(『ニュ−・ミュージック・マガジン』1979年10月号)


「・・・東京ローカルでは3年ぐらい前(※=75〜76年)、村八分のフジオとカップスのマー坊ことルイズルイス加部がスーパー・グループ、リゾートを結成。当時、このリゾートは誰もが待ち望んでいた期待のバンドだったが、フジオのたび重なるシャバと留置場の往復他、もろもろの事情で満足な活動はほとんど出来ずに消滅。
 多くのアンダーグラウンド・ミュージシャンが集まる高円寺でトップ・バンドの誉れ高かった3/3・・・」
(『ニュ−・ミュージック・マガジン』1978年12月号)


 この他、高沢正樹氏が76年末の『新譜ジャーナル』誌に、77年に期待するグループとして3/3を取り上げ、以下のような記事を書いている。
「この所急速に充実したサウンドを創りつつある生粋のハード・ロック・グループ、3/3をあげておこう。
 これまではその意気ごみだけに終わってしまう事が往々にしてあったのだが、今は、うねるようにドライヴするサウンドを生み出し、まるで現在の全てをたたきつぶすかのような迫力を感じさせる事がある。」

(『ZOO』No.28-1980年)


 冒頭で3/3結成前後の時期に新宿御苑スタジオで行われたセッションについて触れたが、リゾート解散後にはCHIKO-HIGE山口冨士夫が同じバンドでステージに立ったことがあるようだ。
 ライブの正確な時期は不明だが、リゾートが77年初めまで活動していたこと、ЯECKが渡米したのが同年3月、CHIKO-HIGEが渡米するのが同年7月であることから、このステージはЯECK渡米後でCHIKO-HIGEが渡米する直前、つまり77年3〜7月の可能性がある。

−で、リゾートっていうのはすぐやめてなくなっちゃったんですか?
山口:ええ。
−また次はバンドは…。
山口:まあ、友達連中は今度は、いわゆるバンド活動がメインじゃなくて、いろんな奴といろいろな付き合いをしながらって状態でしたね。だからたいしてギターの弾けない子達なんかと一緒にやってましたね。何度かステージやりましたね。福生とかで。
フリクションのメンバーとか…。
山口:ああ、チコ・ヒゲがドラムたたいたのは一度だけですけどね。あれは一度だけなんです、あの時は笑ったな、6時開演なのに、バンドが着いたのが12時なの(笑)。お客待ってるの。で、ライブ始まったはいいけど、2曲目くらいでおまわりさん来ちゃって(笑)、夜中だから。んで3曲しかやらなかった(笑)。でも目一杯やったんでみんな満足してくれましたけどね。その時のテープまで持ってますよ(笑)。笑っちゃいますよー、お巡りがウロウロしてっから、次の曲で終わるぜ、かなんか言ってんの(笑)。・・・
『ロック大系1957-1979[上]』(白夜書房)
CHIKO-HIGE、ЯECKらと交流のあった山口冨士夫

 ・・・アンダー・グラウンドでの活動を続けてきた3/3は1976年12月に新宿のディスコで行われたギグ「パンクロック・パーティー」ガールズルージュらとともに出演した。またこの年の末から翌77年にかけて開催された「スウィッチ・オン」という連続イヴェントにも前述のリゾートらとともに出演している。とはいえ、既存の音楽からズレた3/3のどこにも属さないロックン・ロール・サウンドは、ライブ・ハウスのオーナーたちに簡単には受け入れてもらえず苦戦を強いられた。当時ライブ・ハウスで演奏するにはテープ・オーディションをパスしなければならなかったし、集客のノルマが課されたりした。今では想像もつかないが、これほどの実力があるバンドにでさえ演奏するスペースと機会は十分に与えられていなかった。そのためワンマンでライブハウスに出演するケースは殆どなく、リゾート裸のラリーズなどと一緒に出演したり、自主コンサートを行ったりしていた。
3/3と同じステージに立ったことがあるガールズ
※右が後に近田春夫&BEEF、ジューシー・フルーツ
 に参加するイリアこと奥野敬子

 海の向こうで吹き荒れているパンク・ムーヴメントに対し、このTOKYOの現状は一体何なんだ!?とイラ立ったかどうかは定かではないが、77年3月にギターのЯECKは東京での活動を諦めてニューヨークへ渡ってしまう。この時点で3/3は自然消滅したことになる。そして後を追うようにドラムスのCHIKO-HIGEも同年7月にニューヨークへ向かった。ちなみに、モリ・イクエ(後にD.N.A)、鳥井賀句(PAINなどを経てロック・ジャーナリスト)などもニューヨークへ渡っている。当時ラモーンズのファンクラブ会員で、後にFRICTIONのファンジン『WATCH OUT』の制作に参加し、BOYS BOYSなどを経て後にFRICTIONに加入する茂木恵美子もこの時ЯECKとともにニューヨークへ行っている。

 3/3が日本のロック・シーンに与えた影響は、表向きには微々たるものかもしれない。しかしメジャー資本に頼らずライブ・ハウスを中心にアンダーグラウンドで活動することで自立した立場を確立するという手法は、後に東京ROCKERSという形で花開くことになる。東京ROCKERSが日本で初めて本格的なストリート・シーンを形成できた背景として、3/3や、やはり同時期にアンダーグラウンドで活動していた紅蜥蜴が1970年代初頭から中盤に起こしたアクションを無視することはできない。

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“うたおう!さんぶんのさん”


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