Update 1999. 12. 1

山口冨士夫インタビュー
(インタビュアー:高護ほか、1988年)

山口:'74, 5年ですね。パクられて帰ってきまして。それでまた俺もバンドやりたかったんで、とにかく加部正義とやりたかったんで、横浜に移ったんですよ、僕はね。京都にいる必要もなかった。たまたま彼女が京都だったんで、ちょっと京都に住んでましたけど。彼女っていうか女房ですね。京都に住んでましたけど、またバンドやろうぜってことで、とにかく会おうやってことで。したら、ある奴(※注)が俺達が完全にリゾートってバンドを組んだっていう風に宣伝しちゃってる訳。メンバーまで決まってて。まだ練習しようやって段階なのに、もうコンサートは決まってるわ、何もかも決まってるわで、それだけはこなしましたけど、こんなんじゃ無理だってんで。で、マーちゃんとは音楽性がちょっと違ったのかなあ?何かが違ったんですね。性格だけ違っただけかもしれませんけど。まあ無理かなって事であきらめて。だいたいリゾートを作った奴ね俺達じゃないんですよ。他の奴が勝手に名前つけて作ったんですよ。関係ない端の奴が。4、5本ライブやったかな?渋谷エピキュラスとか渋谷の映画館だとか。屋根裏の近くに映画館ありますよね。いろんな所、何か所かでやりましたね。それで終わりです、リゾートは。
−リゾートっていうのはどんな音だったんですか?
山口:僕のオリジナルです。
−村八分でやってたようなものとは…。
山口:全然違います。『ひまつぶし』の曲もやってません。ええ。
−その前のズーンっていうのは…
山口:ズーンっていうのは『ひまつぶし』の曲をほとんどやってたんですけど、ティナって女の子は新しい曲いくつも作ってましたから。「ミス・ユー」なんて曲、ストーンズよりも前に作ってましたからね(笑)。
−サウンド的なものっていうのはどんな感じで?
山口:ズーンっていうぐらいですから、濁音ですよね。音は。で、彼女(注:ティナ)のすごい情熱的っていうかな、ファイティング・スピリットっていうのかな、思いっきりダンスするっていう。音楽的にはどんな線だったって言われたら、かなりアメリカン・ロックに近いものだったですね。アメリカン・ロックってもレイナード・スキナードとかサザン・ロックに近い面があったんじゃないでしょうか。僕だけがブルース系のものを引きずってて。
−リゾートも、じゃあそういう感じで。
山口:そうです。
−歌は?
山口:僕です。
−オリジナル?
山口:そうです。憶えてるのは…Fがつく…大ヒットしたバンドの…。
−当時?
山口:今でもありますよ。フリートウッド・マックの曲なんてやってましたね。その時、小林…コッペって奴が初めてベーシストとして現れたんですけど。コッペとはもう、ダイナマイツやめるちょい前から知り合いだったんですけど、今だにたまに僕等のステージ上がってきてシンセ弾いてますよ。
−で、リゾートっていうのはすぐやめてなくなっちゃったんですか?
山口:ええ。

※つづく
『ロック大系1957-1979[上]』(白夜書房)

※注:インタビューで山口冨士夫が触れている「リゾートというバンド名を勝手につけて、メンバー、ライブまで決めた奴」は、ЯECKがインタビューで語っている「リゾートというBANDを仕掛けた人間」と同一人物と思われる。

PRE-FRICTION“ 3/3” へ戻る