LAST UPDATE 2002. 11.23
収 録 曲
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LIZARD
81/2
SS
Mr. KITE
PAIN
自殺
FRICTION
SPEED
MIRRORS
MIRRORS
S-KEN
THE STRANGLERS
THE STRANGLERS

LIZARD
SS
デストロイER
:CITY BOY
:Mr. TWIST
:CRAZY OR LAZY
:リズムの時代
:ぶた
:CRAZY DREAM
:BOYS I LOVE YOU
:PASSENGER
:環七
:ぶちやぶれ
HANGING AROUND
DEATH AND NIGHT AND BLOOD (YUKIO)
マシンガン・キッド
:コカ・カーラ
上映会フライヤー .

ハイパワー・ロックンロールドキュメンタリーフィルム "ROCKERS"
1978〜79年にかけて撮影され、79年5月から自主上映会の形態で各地で上映されたのがFilm版『ROCKERS』。具体的には1978年12月31日・下北沢ロフト1979年1月2日・渋谷屋根裏での各バンドのライブと、79年2月に来日したストラングラーズのスタジオLiveに、ストリートの若者たちの声などを挿入した16ミリフィルムのドキュメンタリー作品。テレビ制作会社を辞めた映像マン津島氏が、たまたまS-KENスタジオで見たバンドたちに衝撃を受け撮り始めたのが同作品。一方で、同年4月にリリースされたオムニバスLP『TOKYO NEW WAVE '79』(ビクター)、『東京ROCKERS』(CBSソニー)はメジャーのレコード会社が一連の東京ロッカーズの流れをムーブメントと捉え、すかさず商品化しようと急いで制作したモノ。つまりほぼ同じ時期に公開、リリースされたが2種類の作品は根本からコンセプトが異なると言える。
10年後の1989年に宝島からビデオ化されたが、その際ストラングラーズの出演部分・・・演奏2曲(『HANGING AROUND』、『DEATH AND NIGHT AND BLOOD (YUKIO)』)とJ.J.バーネルのインタビューがカットされた。これは同作品を金儲けに使わないという津島監督とストラングラーズの約束に従ったものと言われている。以下、ビデオに収録されなかった部分のみ解説する。ビデオで見られる部分についてはビデオ『ロッカーズ』のページを参照。また、この作品のプロデューサー(監督、撮影)である津島秀明氏(故人)のインタビュー19791988も要チェック。



フィルム版ではS-KENの演奏後、ヒュー・コンウェルのアップ画像に切り替わる。ヒューは何やらミキサーのツマミを調整している。続いてデイヴ・グリーンフィールドのシンセ音がムニョムニョ〜♪と入るといよいよ演奏へ。1曲目は1stアルバム『RATTUS NORVEGICUS』収録の『HANGING AROUND』。モノクロ映像とマッチする重苦しい音。演奏が終わるとオフ・ショットの映像にJ.J.と思われるインタビュー音声がかぶる。最後に三島由紀夫を讃えるコメントを残して、映像は2曲目の『DEATH AND NIGHT AND BLOOD (YUKIO)』に。この2曲目の映像に移る直前に一瞬、J.J. バーネルが描いたヒトラーのイラストが映し出される。2曲目の後映像はビデオにも収録されている海水浴客でギッシリ埋まるビーチや東京の風景に替わる。そこに、、、Q「東京の印象は?」J.J.「Very big!」と一言入る。フィルムを通して見て、東京のストリート・ロッカー達が英国PUNKSのストラングラーズに劣っているとか、レベルが低いとかそういう印象はない。むしろストラングラーズを含むここに登場するバンドは同じ時代に同じ地平に立っていたのだろうと感じる。



J.J. バーネルのインタビュー(日本語テロップを転載)

フリート・ウッド・マックみたいな、
スーパーやエレベーターや飛行機のB.G.M.
毒にもクソにもならない、
スーパーで買う気を起させるだけの音楽があるだろ……
俺たちの音楽はそんなものじゃない……
本物のロックンロールはね

俺の会った人達、ロッカー達はOKさ。
ここに住んでるわけじゃないし、
十分に話したわけじゃないけど……
とにかくライブ・ハウスで会った奴や
コンサートに来た連中はOKさ

三島由紀夫は本物のアーチストだ
右翼にも左翼にも尊敬されるべきだ
彼は、りっぱに自決した
自分が言った事は、ちゃんとやっとのさ。
俺は右翼でも左翼でもない
ニュー・ウイングさ!

Hugh Cornwellのアップ
Dave Greenfield
テロップ画面のバックは
DrumsのJet Black
ミシマサイコー!
The Stranglers

Hitler says "Fuck Off! J.J." 
♪死、夜そして血!フィルムのエンディング<おまけ>
8 1/2の別録り部分がカラー
(ビデオはモノクロ)

「BACK TO 1978!! "東京ロッカーズ"!!」@新宿ロフトプラスワン 2002/12/19
新宿歌舞伎町のドまん中、風俗店が特に密集しているコマ劇場のスグ目の前にあるトーク・ライブハウス「ロフトプラスワン」でフィルム『ロッカーズ』(new print)の上映会とトークライブが決行された。入場料1,800円+drink。
19時30分スタート予定でしたが私が着いたのは20時頃。店に入るとSSが『Mr. Twist』を演奏しているシーンがスクリーンに映し出されていた。どうやらトークLiveは上映の後らしい。
席に着いて目の前の18インチくらいのモニタで見ることになった。さすがに画質は良いけど、ビデオは持っているし、ちょっと退屈。ボーっと見ていたが、普段早送りで飛ばしてしまうことが多い部分も改めて見ると「えっ?こんなシーンあったっけ?」と思ってしまう。音質も違うと思った。特にミラーズの時、アンドウのギターの音がデカいなあと。S-KENの演奏が終わるとビデオ版だとラストの『マシンガン・キッド』にいくが、フィルム版(new print)なのでストラングラーズのシーンが入る。ドラムスの音を殆ど拾ってないんじゃねーの?というミックスだが、、、。
1時間強の上映が終わっていよいよトーク。まずこの日全体を何とか仕切ってくれたMAGNETの山浦氏、『DOLL』編集長の相川氏の2人でスタート。が、相川氏が話さないのでテンポが悪い。
最初のゲストは『ロッカーズ』の映像を撮った井出情児氏とイラストレーターの八木ヤスオ氏。故津島監督をネタに話を展開しようとするのだが、八木氏はそれに至る経緯とか(フランク・ザッパの仕事...云々)その辺を話したがって、山浦氏に遮られる場面も。この日聞けた逸話の中でもなかなか面白かったのが、ここでの井出氏の話。『ROCK FILE Vol.1』掲載の津島監督のインタビューにあるように、同監督はフジテレビ(系制作会社)を退社して『ロッカーズ』を撮るわけだが、そこに至る経緯・・・断片的に拾うと、当時テレビカメラは現在では当たり前のハンドカメラ(肩に抱えるタイプ)がなくて、外に出ての撮影は16ミリ・フィルムになる。(中略)で、ロッカーズのような作品を撮るためにはカネが要る、と。フィルム代、現像代で300万円ほど。音の方は何とかやるけど、絵の方でそれだけ金がかかる。それは自分がフジテレビを辞める退職金を元手にすれば何とかなる、そんな話で井出氏や山浦氏らとスタートする。その退職する際、津島監督は「クソったれ」の意味を込めてフジテレビの社長のデスクの上にウンコをしてったそうだ(笑)。それがフィルム『ロッカーズ』の中で出てくる巨大巻フンだ、というのが井出氏による解説。それから津島監督のエピソードで、フィルムは当時の彼女(奥さん?)に買わせたのにもかかわらず、最初の上映会に彼女を呼んだ時に入場料を徴集したそうだ。あとモノクロ作品にしたのはただ単に予算がなかったからで、お金があればカラーにしていたであろう、とのこと。
井出、八木両氏がそうこう話しているうちに八木氏がカラんで乱れ始めたので、2人に退席してもらい、続いて地引雄一氏とモモヨ氏が登場。2人ともそんなに饒舌ではなく、やはりテンポよく話が進まないので、S-KENと恒松正敏氏も交えることに。S-KENが、風貌はすっかりオジっさんになってしまっていたが、しゃべりのエナジーは当時のままで、ここからトークLiveが引き締まった感はある。いろいろな話が出たが、メモをとってたわけでもないのであまり覚えていない(汗)。断片的には、、、

*写真左から山浦氏、相川氏、鳥居氏、恒松氏、"S-KEN"田中氏、モモヨ氏、地引氏

●フィルムを見終えて、一同「かわいい」と自分を評していた。
●S-KENというバンドはNYから帰国したS-KENこと田中唯士氏が山浦氏のバンドを、なかば乗っ取る形で結成。結成したばかりでオリジナル曲もない状況でスタジオ入りし第1回目のリハを終えたところで、無謀にもS-KENは1ヶ月後の渋谷屋根裏にLiveをブッキングしてしまう。この時S-KENは「大丈夫、大丈夫。1週間で17曲作るから」と言ったそうだ。それで本当に曲を作ってしまったのがスゴい。この屋根裏ライブが、日本のロック史で重要なポイントとなる、いわゆる「東京ロッカーズ誕生」ともいえる1978年4月15日(土)渋谷屋根裏(昼の部)のライブだ。共演はFRICTION。
●S-KENというのは最初はバンド名のみ。これは田中氏が命名した。その後、田中氏個人名としてのS-KENは、綱島氏とS-KENが道でバったり会った時に「おーい、S-KEN!」と呼んだのがきっかけとか。
●S-KENスタジオはライブハウスとしてスタートするが、より収入を得やすいリハーサルスタジオも併設していた。このスタジオの最初の利用者は、何とツー・ビートだった(?聞き間違いかも)。その他サザンオールスターズなども利用したことがあるという。
●LIZARDに対して津島監督は、(ある意味)紅蜥蜴を演じるようにオーダーしたという。モモヨは本当は『王国』(part1+2)を演りたかったが、津島監督が紅蜥蜴期の曲を2つ指定した。LIZARDだけカラーなのは前述の通り予算の問題もあるのだが、モモヨが「カラーじゃなきゃ出ない」と言ったとか言わないとか(冗談っぽく話していた)。
●Mr. KiteのワクがS-KEN田中氏に小便をひっかけた、というこぼれ話。これにはいろいろ裏があるらしくて(ちょっとオフレコ)。
●SSは、修学旅行で東京に来ていたのを、そのままステージに出して撮影したらしい(あれは学ランだった?)
●その後、ツアーで東京に来た時、モモヨの自宅にSSのメンバーが宿泊したそうで。その時、家の中で『明星』の付録か何かのソングブックを見ながら(確かコード進行付き)流行歌を練習されて参ったとか。SSはステージでフィンガー5を高速Versionで演奏したりもしたが、この時は普通に歌謡曲を大声で弾き語っていたそうな。
●新宿ロフトの話。ロフトは70年代当時は山下達郎などニュー・ミュージック・バンドのハコだった。彼らがメジャーになりテレビに出演するようになると番組の公開録画などを入場無料でやったりするからお金を払ってライブハウスに来る客は激減。一方で東京の何ケ所で沸き起こりつつあったインディペンデントなロックバンドたちには冷たかった。よくて貸し切り形式でライブをやらせる位の対応だった。しかしその後ムーブメントが大きくなり集客力があるとわかると「1年間のブッキングを頼むよ」と依頼される程にも。このようになってからは、例えばリザードなどは貸し切りなどではなく結構なギャラをもらって出演していたようだ。そこでS-KEN田中氏が一言「新宿ロフトが東京ロッカーズを育てたみたいに書く(言う)奴がいるけど冗談じゃねーよ。実際はこうだったんだから」と。
●鳥居賀句氏が合流。青い部屋のことなどをシッカリとPR。山浦氏に「さっきフィルムに出てたPAINより、今やってるBLACK LISTの方が全然イイ」と誉められる。
●1978 or 79年の東京ロッカーズ中部〜西日本ツアーで名古屋・芸音劇場でやったとき。LIZARD、FRICTION、...などがライブハウスの2階に布団を敷いて泊まった。その時(だけじゃなくて高円寺でもだが)ワクが暴れたらしい。恒松氏はおやすみ前のBGMとして誰かのラジカセでサムクックのテープを聴いたそうだが、、、ここで話がそれて「俺、R & Bとかスゴい好きで、サムクックみたいの時代を超えていいものはイイ!平井堅なんてダマされちゃダメ。顔はソレっぽいからダマされちゃうんだけどな(笑)。歌謡曲だからなぁ。。。」と話してました。
●恒松氏の息子さん=R.D.Cが何と英国ツアーに出かけるという話。エイフェックス・ツインことリチャード・ジェイムスが主宰するRephlexレーベルに音源を送り続けていたら認められて、レーベルのツアーに参加してくれ、というオファーが来たそうで。恒松氏も一緒について行きたい、何て冗談も。
●時折八木氏がビールジョッキ片手にステージに乱入。酔っぱらってるから手許がおぼつかず、ジョッキからこぼれたビールが相川氏の頭に・・・。酔っぱらいながらも八木氏がイイこと言った「ここに今日来た若い君たちがこのフィルムを見てどう思ったのか聞きたい!」と。他のゲスト出演者も同じことを聞きたかったようで、あらためて鳥居氏が呼び掛けた。
●その後八木氏は抵抗しながらもステージ上から引きずり降ろされ、質問タイムに入った。
●まず1人目が「当時はドラッグの影響があったか?」これに対し「もうこの頃はやってなかった」というのが大方の意見。「コカインなんか買う金もないし」とか。ここでモモヨ氏がおどけて「俺は逮捕されちゃったけどな〜」というシーンも。
●2人目は「当時の英国バンドと比較してFRICTIONなどひけをとらないわけだが、米英など海外でリリース、活動などは考えなかったのか?」という質問。これに対しては、いくらか話はあったが今とシステムが違っていて、終いの方で話が立ち消えることが多かった、という答えだったような気がする(自信ナシ)。あとLIZARDは英国フォノグラムからリリースしているし、レコーディングもやったが、J.J.バーネルの「君たちは日本人だから日本語でやるべきだ」という言葉にモモヨも賛同したらしい。それから、実際に契約すると1年で何本ツアーをやらなければいけない、という縛りが課せられたとのこと。
●3人目はズバリ「いわゆる"関西NO WAVE"のSSに対してどのように思っていたか?」。これに対して恒松氏は「衝撃的だよね。カッコイイと思うよ。」と答えた。ただし前述の通りモモヨは良い思い出がないな〜と。S-KENが鋭い批評をしていた・・・「彼らは短命で、その後やったバンドがことごとく面白くなかったし成功しなかったんだよね。彼ら自身がSSのスゴさを知っていたらああいう風にはならなかったんじゃないかな」と。話のついでにLIZARD(モモヨ)V.S INU(町田町蔵)の当時の対立の噂についても。これはマジで嫌ってたわけではなく、町蔵流のシンパシーでもあったと後に告白したらしい。モモヨ曰く「町田君の名誉のために、、、当時日本語でパンクをやると「モモヨの影響で〜」と書いたライターが実際にいたそうだから、それもあってかな」と。

この辺りで時間切れ(というか、それほどトークが燃え上がらなかったので)。最後に鳥居氏が「東京ロッカーズはお前等だ、今日来たお前等、YOU! だ」とシャウトしておしまい。 余談だが、入り口付近に元LIZARDのコウ(中島幸一郎)氏が座っていました。当時のまんまの顔でした。(2002/12/20 記)

DATA
フィルム初公開1979年5月9日/四谷三丁目・イメージ・フォーラム
フィルム72分 モノクロ、パートカラー
製作・監督津島秀明  インタビュー1979 インタビュー1988 ←click!
撮影井出情児、阪上伸正、御子柴滋、三枝盛男
中嶋正利、追水正一(スチール)
音声山浦正雄、片岡洋、弦巻裕、時田和之、久保重朗
制作進行柿沢健次郎、押尾雅博、沢野義人
エフェクト佐藤一雄
テーマ音楽山下進三、大石修、
石井啓一郎(日本フィルハーモニ−交響楽団)
編集井出情児

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